昭和42年 12月31日 朝



 今月今日で一心に頼ませて頂いてきた一年間ではあったけれども。一心に縋ってきた、頼んではきたけれども、一年を振り返ってみて、お神様に喜んで頂けるような信心も修行もできず、おかげだけは広大なおかげを頂いてまいりました。一年間、いや、私は本当に思うのです、確かに一日だって一時だって、お縋りしないときはなかった。
 今月今日で一心に頼めと。おかげは和賀心にありと。と教えられます。確かに今月今日で一心に頼んではきた。けれども、おかげは和賀心にあると仰せられる、和賀心にもなれんままにおかげだけは受けてきたという、一年間であった。
 皆さんはどうでしょうか。今月今日で一心に。確かに頼みつづけてきた。それは一時だって、頼まんでよいことはない、縋らんでよいことはない、縋ってきた。頼んでもきた。そういう一年であったけれども。おかげは和賀心にありと仰るが、和賀心にもなりえずおかげだけは受けてきたという一年間であった。
 合楽の今年のおかげというのは、それこそ筆舌尽くせないほどのおみかげであった。三月の奉祭式。四月の教祖大祭、春の御大祭に合わせての落成式。(????)神のお祭りはそりゃあもうございました。そして、初めての八月の夏の祈願祭。それから大祓式。八月三一日。それから、十月の教祖大祭に合わしての開教式。私どもそして初めての、十二月十一日の報徳祭。これは大きなお祭りだけでもそれだけ。
 その間に受けてきたおかげっていうのは、私個人だけでも教師検定合格のおかげを頂き。皆さんが心配しておられた教会長問題も、やはり私をして初代教会長としてのお取立てを頂くことができた。健康の上にも大変心配をしておりましたけれども、本当に神ながらなことであったなと思わねばならんほどの広大なおかげを健康の上にも頂きたい。
 誠に思うてみれば、大変なおかげの年であったなと思うのであります。ですから、そのことがそういう大変な(???????)を持ってきたような一年間であった、あればこそ、なおさらのこと一心に縋っても頼んでも来た。生神金光大神、天地金乃神、一心に願え、と仰る。確かに一心に願ってきた。今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にありと。
 一心に頼んできたけれども、一心には縋ってきたけれども、それこそ大変なおかげを頂いたお年柄ではあったけれでども、和賀心にならずしておかげだけは受けてきた、実際ではないかとこう思うのですよ。そして、これは私を始め皆さんもでございますけれども、どういうことを分からして頂いたかというと、おぼろげながら分からせて頂いたことは、過去18年間の椛目合楽の歩というものを思うてみれば、思うてみるほど、神様のお働きの一分一厘間違いないこと。
 17年もかかったようであったけれども、その17年間のそれこそ微に細にあたってのお働きが、今日このようなおかげを頂くための全てであったということ。どこにも無駄がなかったということ。こちらの信心がでけんのに、そういうおかげを受けてきて分からしてもらうことは、私どもが日々信心のけいこをさして頂いて、神様の言うなら、降ることも、照ることも、吹くことも、天気の日もあったけれども、その全てがおかげであった。神愛であったということなんですね。
 言うなれば、信心するものは肉眼を置いて心眼を開けと仰るが、心眼を開かずとも、確かにそういうものであるということが分かってくる。信心するものは肉眼を置いて心眼を開けよ仰る。肉眼の目をもって見ると、難儀なものであり腹の立つ問題である。馬鹿らしいことである。けれども、心の目をもってすると、それは全部神様がおかげを頂こうとする働きである。いうならば、それはおかげである。
 心の目をもって見ると、心の目が開かんでも、17年間、18年間の体験を通して頂いたことは、確かにそうだなぁということである。肉眼を置いて心眼を開かせて頂けば、確かにそうであろうという確信だけがでけたというところではなかろうか。本当に肉眼を置いて心眼を開いてない証拠に、事に局面する、問題に局面すると、それが、やっぱり肉眼で見えておるということ。そして、腹の立つことであるなぁ、馬鹿らしいことであるなぁと見えていること。
 けれども、教えを頂くだけではなくて、この18年間の信心というものを振り返ってみて、合楽の上におかげを受けてきた、そのことだけを思うてもです。あの時に心の目が開けておったら腹を立てることもいらなかったろう。イライラすることもいらなかっただろう。
 馬鹿らしいと思うどころか、神様にありがたいありがたい言うて、お礼を申し上げることばっかりだったろうに、そこは心眼を開いてない悲しさ。やはり肉眼を持って見てきたけれど、確かに心眼を開かして頂けば、そうあろうということだけが分かった。ね、そうでしょうが。
 私のこの一年を振り返ってみて、ただいま申しましたような広大不変と、普通申しますけれども、その言葉が今年ぐらい合楽のお広前の上に、ぐらいこの言葉が適切であることはもうなかろうと。それは18年間の結集であると言えば、それだけだけれども。もう確かにそういうおかげであった。
 そして、振り返らせて頂いて神様に喜んで頂くところのおかげもようせず、信心修行もようできず、今月今日で一心に頼めと仰る、おかげは和賀心にあると仰る。今月今日で一心に頼んできた。それは一時でも縋らなかったことはなかった。そんならおかげは和賀心にあると仰る、和賀心には成りえなかったということ。皆さんもそうでしょう。
 一心に縋ってきた。一時でも縋らなかったことはなかっただろうと思う。でも、その和賀心には成りえなかった。それは肉眼を置いて心眼を開けと仰る、心眼が開けないかでもある。けれども18年間のことをつらつら考えて見るのに、あれもおかげであった、これもおかげであったということだけが分かった。あの時に心眼を開いておったなら、もっとあのことに対してお礼申し上げられたであろう、このこと対してももっと有り難い信心修行もできたであろうということだけなん。
 どうでしょうか?それも出来ずして、おかげだけは頂いた。来年もその穴埋めとでもいうか、空虚な信心に身の上だけはおかげ頂いたといったような感じ。ですから、来年こそはその内容であるところの、充実した信心をさして頂きたいと。ということを、私はもう願いつづけているわけでございます。今日の除夜祭に、今晩の除夜祭に、いよいよ明日の新しい年を迎えさせて頂けれる、元旦祭に持ちこんで行けれる信心をです。
 本当に実感の伴うた空々しいものではない、私どもとしては、今日ただいま皆さんも頂いておられる、その御理解を頂けば頂くほど、中身のない信心であったのでがございますから、そこをどうか一つこの中身を詰めて頂くところの信心にならせて頂きたい。為には、どういう信心をさせて頂いたらよいのだろうか?また今日までどのような信心をして来たのであろうか?と思うてみるとです。
 肉眼を置いて心眼を開きはできなかったけれども、心眼を開いたらこのようなおかげが受けられるであろう、いや受けられるということだけは分かってきた。そのことを私、繰り返し願わしてもらえる。お詫びさしてもらえる。としておりましたら、いよいよ豊かに、いよいよ大きくと頂きました。わー神様はいよいよ来年は、まだ大きなおかげを下さろうとしておるなという感じがしました。
 そして、もう本当に恐ろしいごたあ。信心もでけんのに。いよいよ豊かに、いよいよ大きくと頂きました。そこで私どもの目指すところがです。いよいよやはり、豊かな心、いよいよ大きな心。いよいよいわゆる馬鹿と阿呆にならして頂く信心をさしてもらえる。まぁこれを詰めると、いよいよ限りなく美しくならせて頂くということなんですね。
 いよいよ豊かに、いよいよ大きくと。来年はそういう神様がおかげを下さろうとしているものを感じますから、私どももいよいよ豊かな、いよいよ大きな心を頂かせて頂かなならんためにです、今日先ほどから申していますように、肉眼を置いて心眼を開かして頂けば、もう即そのままその場で、お礼が言えれるのですから、いよいよ肉眼を置いて、心眼を開かせて頂くということになりさえすれば、どんなに、もうどんなに豊かにでも、いわゆる本気で神様がおかげを下さろうとする、そのおかげをいよいよ馬鹿と阿呆で、私どもはおかげが頂けていけれるなということを感じる。
 ですから、馬鹿と阿呆で道を開かして頂く、いよいよ大きく豊かにならしてもらう。それにはです。心眼を開けば、こういうことになる、なるだろうということは分かってきたのであるから、本当に心眼を開かして頂くための信心修行が、いよいよ望まれることになるのでございます。
 信心するものは、肉眼を置いて心眼を開け。そこに、あれもおかげであった、これもおかげであったと。私どもの場合はあれもおかげであった、ということが分かってくる。今日までの信心はそういう気がする。もうこれもおかげと分かってはおるけれども、おかげと実感して頂けないところに、暗い心になったり、腹立たしくなったり、情けのうなったり、どうしてじゃろうかと思うたり、するわけなんでございます。これもおかげであると分かるためには、どうでも心の眼を開かなければならない。本気で一つ心の目を開かしてもらう。
 開かしてもらいたい、開かしてもらいたいと言うただけじゃ、心眼を開かして頂くための修行とは、というところに焦点を置いて、銘々がいよいよ精進をしていかなければならない。来年はいよいよそこに焦点を置きたい。神様はいよいよ大きく、いよいよ豊かにと言うてくださるから。その大きく豊かにというおかげを頂かして頂くために、まず私どもは心の眼を開かなければならない。
 そして、あれもおかげであるということが分かるだけではなくて、これもおかげであるという問題即おかげと頂けれる信心を、頂かして頂くことこそ神様のくださろうとするおかげを、頂き止めていくことになるんではなかろうとこう思うんです。今年はとりわけて大きなおかげを頂きました。合楽全体といたしまして。
 今月今日で一心に頼め。確かに今年もやはり今月今日で一心に頼んでいくだろう。いよいよ和賀心を開かしてもらい、心眼を開かしてもらい、そこからおかげを頂いて行かなければならない。今年中のお礼とかお詫びとか、もうこれは本当にあの、どうしましょうかね、もう受けるもんだけ受けてきたんだもん。だから、お礼を言わんでもお詫びをせんでも、もう受けるもんだけ受けてきたんだもん。
 だから、それにいいようにあるけれどもです、それを本当に来年です、充実したおかげにするためにはです、どうでも信心も出来んのに頂いてきたおかげをです、今年こそはその信心をもって中に詰めていかなければならない。そこの焦点をいよいよ心眼を開かして頂くための修行をさして頂くこと。心眼を開けばこういうおかげが、こういう状態にもなれる、ということだけは分かったのだから、もう本当にこれは楽しいですかね、精進さえすればお徳が頂けるという確信の持っての、いわば修行ができれる3,43年になるんだとこう思う。
 今年もこういよいよあと僅かで、今日一日で今年という年は暮れていくのでございますから。振り返って見れば見るほど、広大なおかげを受けてきた。もう受けてきた。信心がでけんでも受けた。だから信心はせんでも神様は返せといっておられるわけじゃなかろうけれども、それでは相済まぬ、それでは自分たちが立ち行かん。本当のことになってこない。ですから、そこんところに神様、力を入れて焦点を置いての信心にならして頂きたいと思います。どうぞ。

佐田與一郎